靖国問題で騒ぐべきではないと思うんだが

靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)


でも、買っちった。靖国神社を「感情」、「歴史認識」、「宗教」、「文化」の各側面から考察し、「国立追悼施設」にどのような問題が含まれるかを考察した本(棒読み)。なんだが、資料集として使うのが吉かも。


そもそも、これって騒ぐべき問題じゃないと思う。第二次世界大戦は国としてはもう片がついてる話だから、変に騒ぐことは国益にもならんし。


で、この本に提言はない

ここまで来ると、本質的なことが見えてくる。問題はどのような国立追悼施設をつくるかではない。「追悼懇」報告書のようなものでなくても、反戦・平和の意志と戦争責任認識を明示したものであっても、国立追悼施設が「第二の靖国」になることを防ぐものは、施設そのものではない。施設は施設に過ぎない。問題は政治である。つまり、この「国立」追悼施設に関与する「国」が、戦争と平和との関連で施設をどのように利用するのか、あるいは利用しないのか、ということなのだ。

(p.218 強調ママ)

いや、だから、もともと政治問題だろ?靖国って。実際、こうも書いてるし。

日本では、中国は「A級戦犯」合祀を理由に日本の首相の靖国神社参拝を批判することによって、日本の戦争責任を徹底追及しているのだ、という印象が広まっている。しかし、私の見方は、ある意味で逆である。中国政府は、この問題を「A級戦犯」合祀に絞り込むことによって問題を限定し、一種の「政治決着」を図ろうとしているのである。

(pp.69-70 強調ryozo18)


政治決着でいいんじゃないの?切込隊長の「”俺様国家”中国の大経済」の、『日中間の外交問題を敷衍して極論を言ってしまえば、日本政府や日本人が戦争責任を冷静に見つめなおし、靖国神社問題について考え議論したところで、何ら問題の解決にはならない。こと細かに靖国神社のあらましや、中国政府の要望とそれへの対応を協議し、分祀だの、何だのと話し合ってしまっている時点で、日本側の負けに等しい。全ては戦争責任に関する処理が終了してしまっている(つまり問題が存在してない)にもかかわらず、その存在していない問題に対する中国政府の要求を、中曽根康弘政権が聞き届けて一九八五年を最後に日本政府が靖国神社公式参拝を見送ったことに端を発する。(pp.205-206)』というスタンスを取るべきだと思う。靖国問題を国内のどうでもいい問題としてあれやこれや議論するのは別にかまわんが、重要な問題として取り上げるのは、政治的視点の欠落以外の何者でもないと思う。