仏典はどう漢訳されたのか――スートラが経典になるとき


amazonで見つけた本。「シリーズ大乗仏教〈全10巻〉 シリーズ一覧 | 春秋社」なんかをぼんやり見てたら見つけたような記憶が。一緒に「漢字の成り立ち: 『説文解字』から最先端の研究まで (筑摩選書)」も買ってたらしい。ポチった時はいったいどんな心境だったのか当時の自分に聴いてみたい気もする。この本と前後して、「漢文法基礎 本当にわかる漢文入門 (講談社学術文庫)」や、「日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (ちくま文庫)」を読んでいたわけで、自分の中では「日本の成り立ちの諸要素をなんとなく追いかけたい」というくらいのつながりがあったのだろう。


以前、「法華経〈上〉 (岩波文庫)]を買って読んだ際に、「本書では漢訳・読み下しにサンスクリット原典の訳を現代語訳を対置し、読者の便宜をはかっている」との説明があって、「あー、確かに漢文からじゃなくてサンスクリット語から直接現代語訳にしてくれたほうがええやん」と無邪気に思って、そのサンスクリット語原典からの現代語訳を読むと、これが自分の知ってる経典とは全く印象が違ってびっくりしたことがある(ただ「浄土三部経〈上〉無量寿経 (岩波文庫)」で読んだ「無量寿経」のサンスクリット語からの現代語訳に関してはそこまで違和感はなかったんだが)。


とまあそれくらい仏典に関して無知だったわけだが、この本でそれこそ「仏典はどう漢訳されたのか」のおおよその流れが分かったからすごい。


本書と「漢文法基礎 本当にわかる漢文入門 (講談社学術文庫)」を並行して読んだことで、意識したわけではないが「翻訳とはなんぞや」という読み方が出来たのも僥倖だった。特に中国語とは全く異なる言語体系(と思想体系)のインド仏教を漢訳する作業と、仏教においてはその漢訳(意味の面でも音の面でも)を受容した日本と、さらに日本における漢文の読み下し文化などを考える、という読み方に発展した。そもそも「訓読とは翻訳なのか?」とか。


そこからの飛躍というわけではないが、達意の中国語を話した(書けた)日本人の道元が残した「正法眼蔵」を読みたくなった。空海も有名だけどここでは措く(司馬遼太郎風)。えらく難解だとさんざん脅されてて今まで手を出せずにいたが、そろそろ読んでみたくなった。ただ誰の現代語訳で読むべきか、という問題がありそうなので、そこは別途調べてみよう。