「萌え」るだけじゃダメなんじゃね?

萌える男 (ちくま新書)

萌える男 (ちくま新書)


前著の「電波男」と比べてなにが変わったという感じもなし。買って損した、とまではいわないが。


萌えの効用を恋愛関係・家族関係の崩壊に対する自己保身機能の現れだというのは、一面では理解できるものの最終的な解決には至ってないんだよな、と思ってしまう。


メディアによる情報提供によって、恋愛に競争原理を取り入れることで産業化したものが恋愛市場主義システムであり、このシステム内では「恋愛強者」と「恋愛弱者」が必然的に生じてしまう。この恋愛弱者は、市場へのアクセスを事実上閉じられている層である。ただ、現実の市場と異なる点として、恋愛弱者に対しては、恋愛できないという結果は、個人の努力不足が原因だというある種の徹底した「自己責任論」を押し付けられてしまっており、現実の社会では存在している社会的セーフティネットが恋愛市場においては準備されていない。


このため、恋愛弱者はなんらかの市場化を伴わない形での自己修復というか幸福追求を行った結果が、他者の介在を必要としない「萌え」だと説明される。でも、「萌え」る対象自体が他者からの供給に頼ってしまってるんじゃね?という点で、自己完結型の自己修復システムではないじゃん、供給が止まったら(ありえないんだろうけど)どうすんの?という疑問が浮かんでしまう。


確かに「萌え」ることで、恋愛・家族関係の傷の修復に一定の役割は果たせるかもしれないが、なんか再生産というか自律的なシステムにはなりえてないんじゃないかという気がする。