CODE読み返して思ったこと

CODEを読み返してみて改めて思ったのは、Lessigが根本的な問題意識としておいているのは「憲法的価値をいかにして守るか」ということだ。そして彼のCODEに続く二冊が取り上げたのは著作権の問題だった。その辺の背景を論じるとさらに長くなるので白井先生の解説とかを参考にして欲しい。




レッシグ教授の『コモンズ』を読む
http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/guest/030121/
⇒「IPマッカーシズムを止めよ」、レッシグ教授が講演 - CNET Japan
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20062370,00.htm
ローレンス・レッシグ + Creative Commons インタビュー 「自由に使えるコンテンツ」の世界を作るために
http://homepage3.nifty.com/machina/r/ccinterview.html


白井先生の解説で触れられているように、レッシグは市場原理を重視するシカゴ学派に所属する学者だという点に注意。ただし、以前のシカゴ学派が市場への放任を強力に是とし、政府の介入を極限まで小さくさせようとしたのに対し、レッシグのよってたつ新しいシカゴ学派は、市場の機能を最大限発揮させるためには、適切な政府の介入が必要だという立場を取っている。


つまり、レッシグの言っている「ネットにもある程度の規制は必要だ」というのは、「ネット上での自由を守るためには、政府の適切な介入が必要なんだ」という意味である。そして、レッシグがその後具体的に取った規制の方向は「著作権の権利範囲の制限」だった。


なので以下のCODEの要約は大間違い。

 超意訳すると、ネットのアーキテクチャは商業的利害に染まりつつある。そして商業的利害は民主主義チェックを受けていない。
 ネットが自由なのはアーキテクチャが自由であることを許容しているからだ。
 だから自由を担保するために、コードに国家的規制を加える必要がある。


この間違った要約を修正するとすれば以下のようになる。

規制には「法」「市場」「規範」「アーキテクチャ」四つのモジュールがあり、それぞれのバランスによって規制は実行されている。リアルワールドは物理的な制約などで、この四つがバランスを保ちつつ規制を行っている。


しかし、ネットの「アーキテクチャ」はそもそもが人工的なものであり、物理的な制約を受けずに完全なコントロールを許してしまう。完全なコントロールは、それまでの「物理的制約が当然あると想定されていた時期に制定された」憲法が想定していた自由を脅かしかねない。


そして、この「アーキテクチャ」による完全なコントロールが短期的な商業的価値と結びついてしまうと、本来の市場の成長に必要だった創造性を阻害しかねない(この市場の成長を引き起こす創造性を保護することも一つの憲法的価値だという点に注意)。


このような「アーキテクチャ」を、憲法がそもそも想定していた自由を保障するように作り変えなければいけない。そしてその際に、「法」は他の三つのモジュールに直接的・間接的な影響を与えうるので、「法」による「アーキテクチャ」への働きかけが重要だ。


アーキテクチャ」とは言い換えればコードであり、コードの透明性を担保する方向に「法」は積極的に介入を行っていくべきだ。

てなところだろう。なんか車輪を再発見したような気分だが。ま、こんなとこで。