「日銀一人勝ち」のbewaadさんのフォローアップについて


bewaadさんよりフォローアップいただきました。

「日銀陰謀論は止めましょうよ。」のフォローアップ - BI@K accelerated: hatena annex, bewaad.com


今回の騒動で日銀は結果的に「勝ったといえるのかいえないのか」についてのご意見だと理解しました(陰謀論については特に言及もされていないようなので、この点はスルーで)。



「日銀一人勝ち」でも「結果的に日銀一人勝ち」でもないと納得しました

ryozo18さんが改めてまとめられた3点について申し上げれば、最後の無能な味方ができたことは結果論として明らかに敗北でしょうし、第1点目もwebmasterの主観としては怪しいかな、という気がするので、第2点目だけだとすれば日銀が勝利したとは結果論としてであっても言えないだろうと。


bewaadさんのおっしゃりたいことは「日銀は結果的にも決して『勝っては』いない」ということでよろしいでしょうか?いただいたご指摘を拝見すると、最初の「日銀一人勝ち」の「勝ち」という表現に問題あり、という理解に達しました。


なにをもって「勝ち」とするか、特に今回の騒動のような場合に客観的な勝敗判定などが出るわけではないので、ある程度は主観的な評価という側面は入ってくるでしょう。そしてその主観的判断の根拠はbewaadさんと僕では異なっていることもありますので、「勝った負けた」という表現に違和感をお持ちになったのは理解しますた。


例えば、第1点目の「結果的に、日銀の願いである『金利正常化』を進めるであろう白川総裁がトップについたこと」の「日銀の願いである『金利正常化』」について、bewaadさんは以下のように述べられています。

第1点目に異論があるかと思いますが、webmasterの半径5mの付き合いでは、日銀役職員を母集団とした場合に速水元総裁はシックスシグマ、福井前総裁もワンシグマぐらいには偏った主張の持ち主で、「金利正常化」が「日銀の願いである」ようには感じられないのです。


つまり、福井前総裁が事あるごとに発言していた「金利正常化」は、日銀役職員を母集団とする平均値からの逸脱であり(ワンシグマならまあ平均の範囲内じゃね?とかはこのさい無視)、日銀の総意とはいえないという理解でいいでしょうか?そして白川氏はおそらく日銀役職員という母集団の「平均値」に近い立場の意見をもたれているのではないかというご意見だと理解しました。


となると、前(前々)総裁が目指していた「金利正常化」という目的は、白川総裁のもとでの日銀の総意としての目的ではない、ということでいいでしょうか?そして(bewaadさんが見るところの日銀役職員の平均値としての)日銀の願いは以下のようなものではないかということですよね。

では何が「日銀の願いである」のかといえば、良く言えば民主的、悪く言えば世間からの批判を受けたくない、ということではないかと。


そして、前(前々)総裁時代のデフレ継続的な金融政策を選択してきた理由に関しては、総裁個人の信念+世間の結果的受容が得られている、言い換えれば「世間からの批判を受け」ていないという判断に基くんだ、と。


なるほど。bewaadさんの見るところの日銀の行動原理については理解しました。そして、その行動原理観に基けば確かに「日銀一人勝ち」とは決していえないということも理解しました。



日銀法改正が困難なんだなという点も理解しました

昔から申し上げていることではありますが、法改正(ができるぐらいなら現在の日銀路線はさんざんに批判されているはず)よりも解釈変更に期待する方がまだしも現実的でしょう。


納得しました。








以下は個人的な意見です。

bewaadさんのご指摘を読んで、日銀というのは相当に問題のある組織だと理解しました

半径5mの含意は、速水元総裁・福井前総裁に関しては、いずれも公式見解を踏み越えた発言が少なからずあったがゆえに多くの日銀役職員は頭を抱えていたということです(発言の踏み越える程度に応じて、速水元総裁の方がより深刻に悩みの種となっていました)。アンケート調査等の裏づけはありませんが、少なくとも公式見解を日銀役職員の最大公約数的見解と定義するなら、それを踏み越えたこれら総裁の発言はその見解との位置関係では偏っていたこととなります。


これを読むと、中央銀行という相当に影響力のある組織の政策はトップ個人の信念によってゆがめられる恐れがあり、そして、その組織内部ではトップ個人の暴走を食い止める仕組みを持たない、ということですよね。


そして、中央銀行としての行動判断基準は「世間から叩かれるか否か」であり、決して専門的見地からの政策判断ではない、と。

岩田・翁論争における翁邦雄調査統計局企画調査課長(当時)の立論に見られる受動的金融政策がその典型ですが、つまりは昨今の日銀のビヘイビアを規定しているのは、

  • 第一次石油ショックの際にはインフレを引き起こしたといって批判された、
  • 80年代後半にはバブルを引き起こしたといって批判された、
  • 90年代前半にはバブルを潰したといって評価された、


といったこれまでの成功・失敗体験であるように見えます。言い換えれば、金融政策の路線をリフレーション政策に転換しないのは、速水・福井とどちらかというと信念の人が総裁として続いたことに加えて、それを世間が求めていないから(あるいはそうではない今の路線が世間からそれなりに評価されているから)という側面が無視できません。


つまり、マクロ経済環境をコントロールする政策を決めるに当たって、日銀は「総裁個人の資質に左右され」かつ「世論におもねる」インセンティブを持つ組織であるということですよね。




これって相当に問題のある組織じゃないですか?


第一次オイルショックの際にはインフレを止められず、80年代にはバブルを引き起こし、そして90年代には過剰な引き締めによる景気後退をもたらし、しかも現在にいたるまでデフレを継続させている組織のよってたつところが、「総裁個人の信念」や「世論から叩かれていない」という点にあるとすると、日銀の存在意義ってなんなんですかね?


「当時は日銀に『独立性』が付与されていなかったから適切な政策運営ができなかったからだ」という反論も、先のbewaadさんのエントリでは明快に否定されています。


運用上、旧日銀法時代から現行日銀法にそれほど引けをとらない独立性が確保されていたわけですが



僕が個人的に「中央銀行」に期待する機能は、経済の安定的成長を金融政策の面からもたらすことであって、例えば景気過熱時にもかかわらず政治から「緩和的政策」が求められても突っぱねるとか、「低金利政策で預金者の利益が損なわれた」とかいうバカな政党からの圧力に屈せずに緩和的政策を取るような機能です。


上で述べられたような今までの「成功・失敗体験」とは、ひとり日銀にとってのものであって、日本経済から見ればすべて「失敗」と結論付けられるものでしょう。


このように考えると、日銀にとっては「安定した経済成長はあくまで偶発的にもたらされるもの」であって、日銀の政策は時々の総裁の資質や世論の動向によって決定されるというのであれば、それこそ直接民主制で金融政策決めればいいじゃん」と思ってしまいます。


ということで、今回の騒動で日銀が「勝った」という意見は撤回します。




「国民一人負け」に訂正いたします。